2020年8月2日
7月22日に、中央最低賃金審議会の答申が発表されたが、今年度は最低賃金の「引上げ額の目安を示すことは困難」と結論付けた。その資料の一つを読むと、労働者側委員は「今回のコロナ禍の中、最低賃金を改定しないことは社会不安を増大させ格差を是認することと同義」として、最低賃金の引上げの必要性を訴えたが、使用者側委員は「コロナ禍によって、日本経済はこれまでに経験したことのない危機的な状況に直面しており、緊急事態宣言や休業要請等は大規模な需要喪失と幅広い業種や地域に影響をもたらし、宣言解除後も以前の状況に戻っていない」として、雇用維持のために最低賃金は据え置くべきだと論じた。両者が真っ向から対立し、結局は目安を定めることができなかった。
経済学者から見て不思議に思うのは、使用者側だけでなく、労働者側も、さらには中立の公益委員も、最低賃金の引上げが雇用維持に悪影響を及ぼす、と仮定している点である。これは、労働市場が完全競争的で、労働の限界生産物に等しいだけの賃金を払わなければならない状態になっているなら、成り立つ議論であるが、現代の経済学では労働市場がこのような完全競争的なものではないと考える方が主流ではないかと思う。
実証的にも最低賃金の引上げが雇用全般に与える影響はほとんどゼロに近いという結果がほとんどである。たとえば、Doruk Cengiz, Arindrajit Dube, Attila Lindner, Ben Zippererによる2019年に Quarterly Journal of Economics に出版された論文は、Current Population Survey というアメリカの個人レベルのデータから、州別、25セント幅の賃金グループ別の雇用の四半期データを構築して、州の最低賃金の引上げ前後で、最低賃金以下の雇用がどれくらい減って、最低賃金を少し超える賃金の雇用がどれくらい増えたかを見ることによって、最低賃金の引上げが雇用に及ぼす影響を推定している。非常に注意深い分析で、現状では最も信頼できる結果ではないかと思われる。この論文によれば、最低賃金の引上げ後5年間、この最低賃金近傍の雇用の変化はほぼゼロだったという。すなわち、最低賃金の引上げによって影響を受けそうなグループの雇用は影響を受けなかったということである。
一つ興味深いのは、賃金レベルでグループ別を行わない州レベルのパネル・データを使った分析との比較である。そのような分析では、州の固定効果と時間の固定効果をコントロールした上で、最低賃金の引上げを行った州はそれを行わない州に比べて雇用水準が低い傾向を見出すが、Cengiz等の論文は、その結果が賃金水準の高いグループの違いによることを発見している。しかも、この効果は(2000年代に)最低賃金の引上げを行った州はそうでない州に比べて1990年―1991年の不況期の雇用水準の落ち込みが大きかった結果だということも発見している。データを1993年以降に限ると、この結果は見られなくなる。
もちろん、Cengiz等の論文はアメリカのデータを使ったものであり、日本には当てはまらない可能性を指摘する人もいるだろう。日本では、賃金レベルでグループ分けした分析はおろか、都道府県のパネルデータを使った分析も少ない。その多くは、(賃金レベルには密接に関連していない)あるグループの雇用(たとえばある特定の年齢層の女性)が失われるという結果を得るものがあるが、最低賃金の近くの全体の雇用がどう変わるかという分析はないように見受けられる。